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こんにちは、佐藤です。ここには私の日記を書きます。よろしく
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斉藤 和巳(さいとう かずみ、 1977年11月30日 - )は、京都市南区出身の福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)である。1996年から1999年までの登録名はカズミ。背番号は66番。右投げ右打ち。

MAX150km/hを超える直球とカーブ、高速フォークが武器の不動のエース。またホークス投手4本柱の一角を担う。

南京都高から1995年のドラフト1位でダイエーに入団。2年目の1997年に一軍初登板を果たすが、故障も多く伸び悩み、一時は球団から打者転向を打診された(二軍戦では実際に代打として打席に立ったこともあった)。しかし投手にこだわり転向を固辞した。1998年には右肩を手術し、2000年には5勝を挙げたものの2001年には再び右肩痛で戦線離脱。勝利を挙げられなかった。2003年には前年4勝ながらも開幕投手を務め、その期待に応えてプロ野球新記録となるオール先発での16連勝などを記録。ノーアウト満塁からでも三者連続三振で切り抜けるなど粘り強い投球を武器に、20勝3敗の好成績で最多勝、最優秀防御率、最高勝率、ベストナインのタイトルを獲得した。リーグ優勝にも大きく貢献。沢村賞にも選出(なお、2003年は阪神タイガースの井川慶も選出され、史上初めてセ・パ両リーグから同時に沢村賞投手が誕生した。また、防御率は2.83で投球回、自責点とも松坂大輔と全く同じ、こちらも史上初の最優秀防御率2人同時受賞となった)。2004年は2年連続の開幕投手となったが、一転して不調。苦しみながらもなんとか10勝はあげたが、防御率6.26は規定投球回に達した投手の中ではプロ野球史上最悪という不名誉な記録を作ってしまった。

2005年は、キャンプ中に既に開幕投手に指名されていたものの開幕直前に右肩痛で離脱。開幕投手を和田毅に譲った。開幕から1ヵ月後の4月27日の日本ハム戦(札幌ドーム)で今季初登板。7回と2/3を失点1に抑え今季初勝利。ここから斉藤は破竹の連勝を続けてゆく。8月24日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)で自身二度目の14連勝を達成。プロ野球史上初の14連勝以上を二度達成した投手となった。8月31日の千葉ロッテ戦(ヤフードーム)では7回と1/3を失点3に抑え15勝目。1981年の間柴茂有(日本ハム)以来となる開幕15連勝の日本タイ記録となった。また、登板試合15での15勝も史上初の快挙だった。9月7日のオリックス戦(大阪ドーム)で日本記録の更新を狙ったが、勝利投手の権利がかかる5回裏に5点リードを追いつかれた。ここで降板していれば勝ち負けがつかず、次回に記録を持ち越すこともできたが続投。しかしこれが裏目に出て、6回裏にオリックスに勝ち越し点を許した。その後、中継ぎも打ち込まれ6-13で大敗し、連勝がついに途絶えた。しかし、シーズンを通してこの1敗が唯一の敗戦となり、16勝1敗で2度目の最高勝率のタイトルを獲得した。

12月24日の契約交渉の際にホークス投手陣初の複数年3年7億5000万円+出来高で契約。エースと呼ばれ主力投手、ドラフト1位入団であるが背番号は66のままである。これは入団当時、根本陸夫専務から「1軍で活躍して背番号が軽くなるように頑張れ」と言われたことが大きく影響しており、本人も愛着がある。また、怪我のために二軍でくすぶっていたころから、妻とともに自分を支えてくれていた妻の祖父(故人)のためでもある。葬儀の際に背番号66のユニフォームを着せてあげたことから、「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」という理由で背番号を変えないのだという。

2006年5月26日の中日戦(ヤフードーム)で、2005年5月11日の広島戦(ヤフードーム)以来の完封勝利を挙げたが、同時にで対戦した他リーグ(斉藤の場合はセ・リーグ)全球団から勝利した投手第1号となった。同日時点での斉藤の交流戦成績は9試合に登板して8勝0敗、防御率1.82である。

2006年6月8日の巨人戦(ヤフードーム)で、脇谷亮太に投手内野安打を許したのみの無四球完封勝利。しかも脇谷を牽制でアウトにしたため打者27人で終了させる準完全試合となった。王監督に「野球の神様が降臨しているようだった」と言わしめたナイスピッチングだった。

ウィキペディアより引用

 

フライデーにて泥沼離婚が報じられました。その後はどうなったのか、なかなか確認ができません。

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